2012-05-01から1ヶ月間の記事一覧
↑じっさいは見開き大の写真
〇しばらく小旅行のために休載しましたが再開します。島根県隠岐郡海士(アマ)町は僕が幼少期の10年間を過ごした場所で 僕の物ごとに関する感じ方の基盤となってきました。 ここで五感ができてしまったのだと思います。ふる里と呼べる所がある人でも、何十…
1968年ごろのアド・センターのエピソードを書いている。堀内さんの周りにいたスタッフは今思うと贅沢なメンバーだった。 コピーライターが「ぐるんぱのようちえん」を書いた西内ミナミさんで、2人めの子が お腹にいて「ヨイショヨイショ」と登社してきてい…
アド・センターで、昼休みを有意義に過ごすべく食堂から部屋に帰った僕らを 待っていたのは堀内さんであった。彼の手にはカードがある。やる気も満々だ。 ゲーム種は決まっていた。「ニッパチ」である。百貨店の暇な時期からきているのでは なく2と8が重要…
堀内さんの写真論が1968年10月号まできた。堀内さんがアド・センターの重役を辞任するまで あと8ヶ月ほどである。「アンアン」の源流としてのアド・センターの日常を書いておこう。 デザイン担当は6名だった。堀内さんの助手も兼ねていたのは2名である。 助…
「ユーモラスな、気くばりの細やかな、憧れに満ちた精神の所有者」を 教養のある人と堀内さんは規定しているが、ご本人が座右の銘にしていたようにも思える言葉だ。 このころ堀内さんはニューヨークには行ったことがなく「アンアン」の取材で初めて行く。 19…
わたくし事をちょっと書かせてください。美大の3年次に「日本宣伝美術協会展」に応募するにあたって持ちあがったテーマが 「ヒロシマ」だった。提案者は装幀家になった菊地信義である。 1年次には彼と2人で現代音楽のポスターを応募し、2年次には僕はベケ…
この1968年7月時点での自然に対する文章を読んで、45年以前の事態でしかないと 思う人はいないだろう。日本昔話は山紫水明な自然があってこそ成り立つ。 破壊の折れ線グラフは現在も下降しているのだ。 地震津波放射能はもともと下降していた線を下から引っ…
森山大道の名前を学寮で聞いて驚いた。隣室の大人びてもの静かな同学年生が 「兄は写真やってるんだ」と言ったからである。森山は今ほどではないが 学生にも知られている写真家だった。「胎児の写真」ってどうなんだろう。 「悪趣味」だとも書いているが。正…
「東北育ちのチャイコフスキーの交響曲」って・・・わかります? ともかく前ふりが長くて面白い。いいのか。アド・センターでの作業ではめずらしく残業していた。堀内さんも後のほうでゴソゴソと 作業していて2人だけだったが、そのうちに「コレ、どう思う?…
写真は「あまりにも深刻で危険な前衛である」。 「君は心の中に鬼のような批評者、探求者を持ち得たか」を 問うのは「性急な私観かもしれぬが」と書いているところには芯の部分が厳しい堀内さんの 一面が出ているように思う。 「ただただゲリラに遭遇したく…
酒席での堀内ブシが活字になって全開といった名調子。 特に五反田の方から池袋に向かうだけで「荒々しくすさんだ北辺に行く」気分になる というのが傑作です。 だけどそんなことはどうでもよいのが全体を読むとよく分かる。 「人間がいつもくり返しているも…
1968年に入った。もっとも原稿は67年暮に入稿済みである。 展示場での取材メモの話から入っている。手描きの字は後年のとほとんど同じで 描き文字は掘内さんの中ではスタイルが完成していたのが見えて楽しめる。 ここではカメラの普及を、美しい構図をみつけ…
口調も改めての伝統文化論はおっしゃる通りだと思う。 「最も独創的な新味を加え、あらたな生命をふきこんだ者こそが真に伝統を守ったことになる」 というのはこの文章から40年経ても変わらない。「禿の女歌手」(ここでは禿頭となっているが)は2011年にも…
「適切な演出は粉飾とは違う。飛躍があっても高次の説得になり得ることもある」 ここに賭けなくてはならないのが作家の志だとの評である。 演出と粉飾の差を見極めなくてはならない。実作の中でにしか答えは見いだせないだろう。「篠山紀信はドラマチックで…
「新しい造形手段、前衛的な意識の酷使」をとの助言である。 もっと殻を破れとハッパをかけたくなる作品なのだろう。 「容認するのを拒否したくなるような真実」を示せとも。そういえばこの時期は毎夜の宴で、いささか緊張感が緩んでいたとみえ 「ちかごろ僕…