2012・・・「アンアン」の源流 アド・センター/1(新谷記)

写真は「あまりにも深刻で危険な前衛である」。
「君は心の中に鬼のような批評者、探求者を持ち得たか」を
問うのは「性急な私観かもしれぬが」と書いているところには芯の部分が厳しい堀内さんの
一面が出ているように思う。
「ただただゲリラに遭遇したくて僕は歩き回った」というのは有り難いことだ。

僕は学校を出て福田繁雄先生のご紹介でカード会社に無試験で就職したが
その会社は1年くらいで倒産。それを通告されたのは午前中で、とりあえず
その会社のADでもあった堀内さんに電話して報告すると「じゃ昼からこっちに来れば」
というので、図々しくもお言葉に甘えてまた無試験で入れてもらったのがアド・センターだった。

アド・センターは1957年に堀内さん(当時24歳)も加わって設立され、
僕が契約社員に拾ってもらった1966年までにはすでに広告デザインの
華々しい成果(「平凡パンチ女性版」も)をあげていたという。
僕はそういう大きなお祭りが済んで余韻に浸ってるというか、もういいや
みたいな空気の中に入ったわけである。会社は伝説時代だったかもしれない。

社内旅行の話で今も思い出すのは、旅館の敷き布団1枚に何人が乗れるかと
満員状態にしておいて、鬼の人が乗ってる人を外からひっぱがし、
ひっぱり出された人と鬼を交代するというゲームを酒飲後にユカタに着替えた
若い男女がやるわけで、みんな団子になって・・・
あとはどうなるかは想像してください(発案者は例によって堀内さん??)。
というふうな羨ましく猥雑な空気は消えていた。
ただ、まだ火照ってるようなゆるい熱気はあった。

「アンアン」の源流であるアド・センターの話は長くなるので、
また続けます(誰も書いてくれてません。僕のはくだらない話が主になります)。

↑入った途端に好きになったマーク。
社を止める時にもマークの入った印刷物を大量にいただいた。

平塚市美術館 1999年 堀内誠一展図録より