2012515・・・ヒロシマ(新谷記)

わたくし事をちょっと書かせてください。

美大の3年次に「日本宣伝美術協会展」に応募するにあたって持ちあがったテーマが
ヒロシマ」だった。提案者は装幀家になった菊地信義である。
1年次には彼と2人で現代音楽のポスターを応募し、2年次には僕はベケット
ゴドーを待ちながら」を演出すべく抜け、彼は国鉄事故を扱ったキャンペーンを応募した。

そして「ヒロシマ」である。あまりにも大きなテーマで、どこから手をつけていいか分からない。
ともかく菊地を含む4名のチームをつくり、広島のユースホステルに10日間ほど連泊して、
中国新聞社の資料室にこもらせてもらい、関連記事を大学ノートに筆写した
コピー機はまだない)。
このころヒロシマ関係の書籍は1500冊くらいがすぐにあがったが、
締め切りや予算の関係(能力不足はいうまでもない)でとても調べきれないので、
その記事を基本資料にして制作することにした。

で、何が言いたいかといえば今回の土門が差し出したエピソードに代表される
ヒロシマ」の現実の重さに手をこまねいているしかないまま時間が進行してきた中に、
又もや異なる形態での核の暴走を止められなくしてしまった今が接続され
最早どんづまりまできたやりきれなさについてなのである。
僕らが広島で調べた結果で知ったことからは、いかなる理由があろうとも核を二度と
使わせてはならないという極くシンプルな結論を補強し確認する作品(未消化だったが)にしか
まとめられなかった。けれどもヒロシマ問題は戦争責任を含む戦後史の底に今も
横たわる普遍的、本質的なことがらである。
そのころ同人誌に投稿した拙文に「ヒロシマ・そこ、ここの旅記」のタイトルをつけ
核を広島長崎に封じ込めてしまおうとする力に抗議したつもりだったが
若気の至りだけで終わったと思えない残酷な現実はそこ、ここで進行中である。

↑平和の象徴のようにいわれる鳩は決して鳩同士が仲良しではない。
来ないでおくれと釘をさされる場合すらある。