201258・・・真のこころざし(新谷記)

「東北育ちのチャイコフスキー交響曲」って・・・わかります?
ともかく前ふりが長くて面白い。いいのか。

アド・センターでの作業ではめずらしく残業していた。堀内さんも後のほうでゴソゴソと
作業していて2人だけだったが、そのうちに「コレ、どう思う?」といって
ひと文字が20センチほどもある4文字の手描き版下を見せられた。
飾りっぽい字であるが何か品が良いので「詩的ですね」と窮して逃げたように答えた。
「なら、いいか」と堀内さんは安心したようだったが、
それが「血と薔薇」の題字だったのである。

雑誌の題字らしいと僕が知ったのは、堀内さんのおつかいで材木町(現西麻布?)の
ある部屋を訪ねたら、ただならぬ雰囲気が漂っていたからである。
そこは天声出版の編集部であった。部屋には刊行中の「永遠なるヒトラー」や「ゲバラの魂」が
積みあげてあり、壁にはズラーッと台割表(編集の構成や進行をチェックする表)が
貼られていた。その表はあきらかに堀内さんの手になるものであった。
ここで「血と薔薇」が進行していたのだ。

狭い、しもた屋の部屋は事務員のほかは無人で、煙草と酒の匂いが充満し
夢の跡という感じがした。僕がお手伝いしたといってもそのように数度おつかいを
しただけだったが「血と薔薇」が刊行された時に無論すぐに購入しようとしてると
「新ちゃんはまだ買わなくていいんだよ」と言われ会社で借りて読んだ。
彼らは大人だなあ・・・と思ったものである。この世界をまるで僕は知らなかったから
堀内さんがそう言うのも無理はない。
1968年10月。堀内さん36歳、僕は25歳になったばかりであった。

↑金箔を使った豪華なつくり。給料が35、000円だったから、2500円という値段は
かなりのものだった。これ熱望にこたえた復刻版。


↑3号雑誌で終わった。それで良かったといわれている。そうかもしれない。
僕には判定できない。2号の貞操帯は四谷のお嬢さんでフラフラしてるとの噂の
岩崎トヨコさん(といったか)、に堀内さんが依頼したらしい。
「私さあ、頼まれたけどそれがどういう物だかわかんないのよ。で掘内さんに聞きに行ったら
詳しく教えてくれて」と数年後に新宿2丁目の「ナジャ」というBARで
岩崎さんから聞いたから間違いない。横で堀内さんは「そうだ、そうだ」と笑っていた。
評論中に出てくる土方巽が裸で出ているページもあった。三島の裸も。
土方については改めて。



↑何度よんでも感動してしまう、たぶん編集長渋澤さんの書いた宣言文。志とはこういうものである。