2012523・・・仲間(新谷記)

1968年ごろのアド・センターのエピソードを書いている。

堀内さんの周りにいたスタッフは今思うと贅沢なメンバーだった。
コピーライターが「ぐるんぱのようちえん」を書いた西内ミナミさんで、2人めの子が
お腹にいて「ヨイショヨイショ」と登社してきていた。そこでみなは「西内ママ」と
呼び、いまでも「ママ」と言っていて「あれからみんなもママになったのに、私だけママの
ままなのよ」とうれしそうに笑っている。ママにしては万事に辛辣な批評をする。

イラストレーターの和歌山静子さんは寺村輝男の王様シリーズをすでに描きだしていて
大金(彼女の弁)の稿料を得ていたがもっと勉強したいと
寺村さんに頼んで堀内さんのそばにきた。
「ぞうくんのさんぽ」を1968年に出した中野弘隆くんもやってきた。
学校時代から兄の正隆さんを通じて知っていた中野くんと、和歌山さんと僕が無駄話仲間で
小さな奥の部屋をあてがわれていたのを幸いに仕事中に「網走番外地」のテーマ曲を音痴で
がなったり、「明日のジョー」を論じたりむろん絵本論、音楽論と四方山話に夢中になった。
仕事の成果はさっぱり覚えてない。あきれた連中だったが、中野くんの面相筆で描いていた
美しい建設会社のコウノトリのマークは今でも街で見ることがあって、懐かしい。
夕方から堀内大学での吞み授業に出席するメンバーの主力がこれらの人であった。

↑1965年刊。説明不要のぐるんぱ。さく・西内ミナミとある。
堀内さんに会社で「子象のはなしを書いてみない?」と言われて
帰宅後に原稿用紙に向かったら、あっという間に書けちゃったというから、
創造というのは不思議だ。
僕ら四方山中の3人に「入っても良い?」と参加してくる。

↑いまも和歌山さんとは組んで絵本をつくったりもしている。2003年あかね書房刊。
ありがたく版を重ねています。

↑ロングセラーのヒット作になったぞうくん。
カバくんたちの色にムラがあるように見えるのは台紙が
ケント紙で、彩色は薄〜い透明水彩を何十度も塗り重ねているからだと思う。
ぞうくんの前の彼の作品である「ちょうちんあんこう」を
彼が自宅で彩色しているのを見たが、あれと同じ手法だろうと推測。
描き文字の正隆さんは僕の演劇部の先輩だった。頭脳明晰なお兄さん。
弘隆くんは照れ屋で、こっちが疲れてくるほど。
お酒はあまり強くなくて酔うと通りすがりの店の暖簾を引っ張ったりするので
かわいそうだから連夜吞み組からは解放した。