2012518・・・定時を守りなさい(新谷記)

堀内さんの写真論が1968年10月号まできた。堀内さんがアド・センターの重役を辞任するまで
あと8ヶ月ほどである。

「アンアン」の源流としてのアド・センターの日常を書いておこう。
デザイン担当は6名だった。堀内さんの助手も兼ねていたのは2名である。
助手といっても特段には何もしない。何か命じられたら従う。
日常は担当している仕事を粛々とこなすのみだ。

僕は三菱重工のPR誌、三和銀行の海外用PR誌、銀座の宝石店miwaの印刷物全てを
担当していた。他の人は宇部興産のPR誌、小田急デパート、東武デパートの
ポスターや新聞広告などを担当。堀内さん自らはニチレという繊維会社そのほかすべて
不定期なプレゼンものも担当しており、助手の仕事はそこで発生する。

出社時間は9時半と契約で定められていたが、僕は守ったことがなく
年一度の契約時にはそれを問題視されて給料は最後まで上がらなかった。
僕はノルマをこなして営業マンとの間に問題がなければいいのだ、というフザケタ
野郎だったのであるが、楽なことは全員がまねるのであろう、
9時半に登社するデザイナーはいなかった。

ただ腕は段違いに先輩たちが上だった。上だったが、そのまた上が側にいるせいか
彼らの人柄が良かったのか、後輩の僕は叱られたことはなかった。
登社時間の問題は重役会議でお目付役の掘内さんも注意されていたらしいが
面と向かって「君たち早く来なさい」とか言えるひとではないので
何かモゴモゴ言っていたが、みんな知らんぷりをしていた。
堀内さんも言うだけは言ったぞ、という雰囲気であった。

それだから確信犯として10時半くらいに登社する(堀内さんは11時半ごろ)。
何となくワイワイとだべっていると11時半になる。
するとソレッと食堂へ。定時の12時が待てないのである。
12名座ったらいっぱいのテーブル。大きなおひつのご飯は食べ放題。
一皿のおかず、勝手にとる大鉢の漬け物に味噌汁というセットだ。

定時のブザーが鳴る前には食べ終わって、1時間の昼休み目いっぱいを
有意義に過ごすべく食堂の前に置かれた冷蔵庫からコーラを一本
出して、設置された帳面にサインを残して部屋に戻るのだ。
部屋には昼飯はめったにとらない掘内さんがいつも待っていた。
なんのために?