この1968年7月時点での自然に対する文章を読んで、45年以前の事態でしかないと
思う人はいないだろう。日本昔話は山紫水明な自然があってこそ成り立つ。
破壊の折れ線グラフは現在も下降しているのだ。
地震津波放射能はもともと下降していた線を下から引っ張っただけであり、事態の深刻さは
変わらない、と知ったところで、どうにもならないのだった。書いた堀内さんもヤレヤレと
書きつつ感じていただろう。ことはアフリカまでも巻き込み掘内さんならずとも
「憮然たらざるをえない」のである。
後年アンアンで「光害」をテーマにしたファッションページをつくったが
叫びを「かくし絵のように画面に沈潜」させたのかもしれない。

再刊された「ロッコール」のレイアウトをしていて大倉さんの文章を
扱ったことがある。色校が出てから全面真っ赤な直しがきたのには驚いた。
粘り強く蝶を追い求める姿と重なってみえた。

ヴェルディの小話で「ためになる話である」と落としているのは
堀内落語である。落語が好きだったからなあ。
僕だって落語ぐらいできるさと言って「オレがいつ怒った!」と演ったのは
スタッフどもに受けました。