頂門の一針とか?(2013815・敗戦記念日碑でもなく)

 何ですかね、これは。うらみ重なる阿奴に一針を、ってか? 
 たしかにそう見えてもしかたがないが、ぜんぜん違う。
 住んだ築地も清洲橋も海そばだった。海といえば塩、鉄は潮風にあたると・・・ここらじゃあ、内陸側よりサビが速いか? あるときそう思った。僕はサビが好きで。波板のサビ壁を撮影して「赤い家」と題して集めてもいる。ベランダに釘を置いて錆びていく様を観たい。白い石膏塊に立てたらどうか。石膏を買ってきた。あとは簡単なはずだったが、何だかマンションのベランダでは、塩の香りがときどきするほど海が近いと言ったって、気分がなあ。
 島では海から15mの地に住んでいる。潮風あたり放題だ。こりゃ錆びるの速いぞぉ、嬉しい。石膏は中止して、さんざん波と闘って丸みを帯びて浜に打ち上げられた木片を拾ってきて舞台にした。黒澤映画『赤ひげ』に出た杉村春子演じる婆さん芸者の白塗り首みたいな化粧をさせて、1本95円(計り売り・店で既に少し錆びていた)長さ12cmを打った。錆びたのを腹に抱え込んだ事情ありふうの板もある。これなる愚行を怪しむ「?型」のもねじ込んで置くあたりに、作者の優柔不断ぶりも出ている。顔つきが商品っぽいから1個950円なら買っていく気の長い同好人が出たりして。

面か線か(2013814・桜にかわって)

 ネムノキが群生する道をいくと桜なきあとの桜という風情である。この木は至る所に勝手に生えるらしい。これほど群生するのだから強いに違いない。暮れるとともに葉が閉じる律儀な雑木だ。
 隣に公の空き地がある。年に一度雑草を刈ってくれる。ネムノキの小さいのだけを残してもらった。赤いクイから先の公の場所を借りて私的に楽しもうというのだから管理しなくてはいけない。身の丈を越えた部分は切る気でいる。こちらの寿命によっては根から絶っておく積もりでもある。
 花は面のようであり線のようでもある櫛状で、したがって表情は曖昧で優雅というか弱々しいというか女々しい(いい意味で)というか。ここでは白っぽいのが多い。赤っぽいのが風にゆれると色っぽさも。
 町の植物学者の丹後先生は「植物は自分の手で育ててみないと分かりません」というから写真手前に円柱で囲んだ日光〜日本橋〜ここ、と連れてきたチビ杉?みたいなのと一緒に観ていこう。

悠然として(2013812・暮らしに合うか)

 島にいても、生き方がゴネゴネと流れるテンポは街にいるのと変わらないはずだ。人間関係の濃密さは知れば知るほど深くなり、血縁社会のもつエネルギーが、地下水脈となって思わぬ所から湧いてくるのである。
 山野で雲竹のCDを発見してうれしくなったついでにブルックナーのコーナーをのぞく。知らない指揮者のがないか、島で聞くのに合う演奏がないか。それは無理な注文なんだが、島では好きな音量で鳴らすことができるのだからと変な欲がでる。
 このまったく知らなかった全集のテンポが島に合うような気がするということは、やはり少しは気持がユッタリしているのだろう。どこにも尖った部分がなく包み込むように歌っている演奏で、大ヒットだった。このブルックナーなら島に合う。

津軽(2013811・岩木お山)

 成田雲竹と高橋竹山を知ったのは、白黒テレビ時代のNHKインタビュー番組でであった。1972年頃だろう。雲竹はすでに80をこえていた。なぜそれが分かるかといえば、感激して山野でLPを求め、夜中に無人の『アンアン』編集部に持ち込み、作業しながら聞き惚れていたからである。世は「原子心母」あたりの時代ではなかったか。そのLPは自宅の引っ越し騒ぎの中で消えてしまい、声だけが耳に残っていた。数年前に雲竹・竹山コンビの放送用テープから起こした全集が出て、勇んで買ったが、この初期のLPを越えてなかった。
 
 あの名盤が出ないわけがないとチェックしていたら、同内容で後からも出たらしいLPがCDになっていた。名人シリーズの第1弾である。近ごろこんなにうれしいことはない。岩木山の麓の1泊300円の宿からリンゴ2コを昼飯に、お山にのぼったのが東京オリンピックの年で、頂上での2コの味をこえるのを食ったことがない。日本には津軽にしか本当の民謡はないと思い込んでいる。テントを背負っての旅の20間山唄をうなっていた。

ボクの道(2013810・そして誰も通らない)

 8月6日に「ボクの道」と書いた、その道である。枝葉が侵食するままになっている。行き止まりで無用では町の「草刈り予算」もつかないから、定期的に刈られることもない。完全に見捨てられた道なのである。
 元は段々畑に通う細い道で、60年前には野いちごを摘んだり、トマトをドロボーしたりするのに通ったし、耕作が終了した10段ほどの畑は段跳び下り遊びの場所でもあった。いま放置された畑を森に変えた勢力は道も支配下におさめようというのである。
 2車線の幅で500メートルもの空間を略奪される前に青空読書室・BAR・アトリエ・個人レストラン(オニギリしかないが)・音楽室・寝床ストリートにしようなどというのはボクだけだから「ボクの道」で、無許可であるが、文句言うひとが出てきて欲しいくらいだ。ここまで来てやっと得られた静寂中に、今度は自動セットのムービーカメラや録音機を置いて観察したらどうだろう。枝刈り鋏とノコギリでの勢力との虚しいひと暴れは運動代わりだ。プロ用の枝刈り鋏が重いのには驚いた。

島前神楽(201387・2畳が舞台)

 神楽の正しい歴史は知らない。ともかく隠岐の神楽は禁止されてのち、プロの舞い手が少数となり、保存会によってやっと残されている状況らしい。音は太鼓と金属の鳴り物だけだからか、豪壮でリズムの刻み(というのか)がたたきつけるように強い。能登の鬼太鼓と荒波にあらがうような、一体になったような姿勢が共通している。
 島前の神楽の舞い手の舞台は2畳ぶんしかない。それをどう活かすかが見せ所である。すると全身の「切れ」が課題になる。六代目菊五郎三宅坂国立劇場に彫刻がある)の鏡獅子を古いフィルムで観たことがあるが、名優の「切れ」には感嘆した。3歩ほどで反・回転をくり返しつつ陶酔感(あっちへいってしまう)をあらわす。公民館での特別公演では90歳近い舞い手の最後かもしれない姿をみた。静かでありつつ荒々しい心を含んでいて目が離せなかった。

マメにしとるかいな?(201386・80代8名)

 僕が10歳まで育った村(多井)である。当時は100名ほどはいたと思うが、今は19名。町では「チベット」と呼ばれている。現在住んでいるのは役場も学校もある町の中心部で、多井の人が「あそこは都会だからうるさくていやだ」といっている地区だ。町全体では2400名(僕のいたころ7000名)ほどである。
 多井までは信号のない道を家から速度30キロで20分。究極的な静けさに、やっと文明から離れられたとの安堵感が広がる。僕の手でこぼした(解体した)我が家の跡は誰かが畑にしてくれている。何か作りたいが、こっちにもまかされた畑があって手一杯である。3月に来て適当に素人植えした野菜が食べきれないほどとれている。

↑その多井からきた新聞。区長は大学時代に一人で泳いでいると親父が監視役を頼んだ幸男である。古い仲だ。「声掛け合いながら」は本当で、必ず声を聞くようにしているようだ。「ボクの道」は町の計画が頓挫した行き止まりの道で、立派なアスファルト2車線。誰一人通らないから一人で勝手に整備して、席を設けて、酒でも茶でも飲む場所にしてやろうと思っている。500メートル以上ある。家から10秒走れば海。川ではウナギがとれた。

↑都会に出た子どもたちに「盆には帰れ」の知らせだろう。幸男がつくったらしい。立派なデザインで、なおしようがない。名乗ると僕を知らない人はいない。暴れん坊小僧だったから悪名が高いままだ。それぞれに屋号がある。僕は中新屋。村の中心部にあったからだ。下から2段目中心部に
近ごろはインデアンになった織野くん(に似た人)がいるが、小中の爺さんで、海も山もこなす名人であり、これから押しかけ弟子になるつもりでいる。