にわか(201310026・0度4:10)

 建て替える前の新橋演舞場の7、8月公演は毎年松竹新喜劇と決まっていた。それが何年続いただろうか。僕はたぶんその全公演を観ている。内容を面白がってくれる人にしか自慢できないのが残念だが、藤山寛美が目当だった。席は装置の構成を観たいためもあって毎回2階の最前列真ん中を昼夜連続でとって、6本のうち4本を観る。昼夜とも1本目には寛美が出ないから、その間に朝昼食をとって余裕充分だ。
 
 しかしじつを言うと、上京してからの寛美は道頓堀中座での全盛期よりも色々な面で力が落ちていた。ただ僕は大阪にいながら実演は観られなかった。まだ中高生だったからだが、大阪では民放も国営放送も競うように週に何度も中継してくれたから、白黒テレビで堪能できたのである。実演は両親がただ一つの贅沢として通っていたので、一家の茶飲み話は寛美の芸について延々とやるのが決まりだった。

 一般的には寛美はアホ役者として知られているが、それは後期の芸だ。ビデオ画像も後期のしかない。僕は寛美が30歳くらいの時に、正義心満々の学生役で出て己の学資の出所である家業がじつは置屋であることを教えられ大人社会の深さに気付くとか、平社員の身で社長宅を訪ねた際に出された紅茶のヒモ付き小袋と角砂糖に仰天しその初体験ぶりをあらゆる角度から演じ紅茶一杯でここまで演るかだったり、2階を貸した子持ち女性の素性が気になって女性の部屋に付随した物干し場を修理するふりをしてノコギリと板1枚を手に探りを入れ続けるとか、倒産寸前の染め物屋の男が起死回生を期した品を納入したところ色についてダメが出て難儀な交渉を続けるうちに無理がたたってか男が色盲にかかっていたことに客席も気付き凍り付く悲劇とか・・・・ともかく名演の山だった。
 
 それらが残ってないのはすべてがアドリブだったからだろう。相手役が絶句し困惑しているのがみえみえだった。あんなのを毎回かまされて応じられる役者は皆無である。寛美は4歳から舞台にいた。そこで大阪にわか芸の諸流派を身に付けたのである。そんな人はもう寛美しかいなかった。にわか(俄)はにわか(即興)の芸である。それをドンドン繰り出さないといけない恐ろしい芸だ。そのくせ残らない。マネもできない。
 浜町の明治座に直美がかかる。寛美の娘で幸か不幸かソックリの顔をしている。しかしそうであっても継いでないだろう。それを確認するかどうか、ポスターの前で迷うのである。