言葉を越えて(2013420・魚はサシミにするのが一番いい。5:30)


↑都電を使って荒川区の商店街を歩いて出会ったこの建物の構造を目でおってみて、中味の部屋割りも想像するのだが、すぐにはわかりそうもなかった。そこで後で観察するつもりで撮ったが、今よくみても分からないのは同じだ。

 現場で「何だろう」と一応は考えるのであるが、言葉が出ない。出ないがその場をすぐには去りがたい。そういう光景がある。どこにでもありそうである。ありそうというのは日本ではこういう光景が確かに多いような気がしているからだ。だけど僕の散歩メモ写真何千枚中にはじっさいはこの2枚しかない。現場の雰囲気は下のほうが出ていて上は光景に出会った衝撃の多くは記録されていないというか、記録するには力不足であった。これを言葉に直すについても力不足だ。さて何と言ったらいいか。


隠岐郡西の島町浦郷(うらごう)はかつては本土とを往復する大きな定期船が着岸して、賑やかで華やかな町だった。今は静かな漁師町である。そこにも柱の間隔などが納得できず、構造が分からない大家があった。分からないが、衝撃は受ける。物(デザイン)が伝えてくる言葉がある。その中でも分からない言葉に惹かれる。何処ででも(たぶん地球の果てでも)。デザインは美術館に入りきれない。NYの近代美術館で観ていてもすぐに退屈してくるのがデザインなのだ。デザインは「現場」の物だ。現場で生まれ、そこで朽ちていくからいいのだ。
 歩いていてその環境を含めて出会って味わうからいいのだろう。こうして切り抜いてみても感動は伝わりそうもない。残念だ。