ホントに無用か(2013413・室温16度1:50)

 「疲弊」という難しい言葉がある。僕は長い間、見たことも聞いたことも無かった。それだけ幸せな時代を生きてきたのだろう。ある時からたびたび出てくるようになって国会審議の場などにも登場し、有り難くない市民権を得て、迷惑にも日本全国を覆う黒雲のごとくとなった。まるで「水滸伝」の書き出し部分みたいである。何者かが開けてはならない壺のフタを開けたのだ。すると壺からは黒雲が湧きだし国全土を覆い、やがて各地から勇者が生まれ、梁山泊に集結するのであるが、日本ではそういう情報はなく、ただただ疲弊していくだけだ。

 この世は疲弊部分があると隆盛部分もあって、隆盛部分は我が世の春の心地でいて4000億円もの勝手に溜め込んだみんなの貯金があるから「パッと5輪でいきましょう」なんて、三木のり平宴会課長みたいなことをほざいている。疲弊部分がある限りその空騒ぎは砂上の楼閣なのだが「バカは死ななきゃ治らない」ものらしい。
 疲弊部分に属する町を歩いていて悲しくなるのは、贅沢な物がまず消えるということだ。米味噌塩醤油は贅沢ではない、生き残るうえで最低の要件だ。「生き残る」というのは「身体のみ」が、である。

 ところで僕の仕事は贅沢な方にも属しているらしい。贅沢と思われているからか疲弊が著しい。ここで極端な例を出すと芸術は贅沢である。贅沢であるから「いやー、僕らの仕事はそもそも無用ですから」と自慢げに嘆いたりする。これは何度もこれからも書くが、ぜったいに違う。贅沢は敵ではない。何万年以前の洞窟画や縄文土偶平凡社刊『縄文美術館』参照)から始まる味方なのは歴史が証明しているではないか。
 疲弊した商店街では先ず着物屋が消える。何処ででも見る光景である。たしかに着物は贅沢である。その深い贅沢さの説明は不要だろう、今は。そう言っただけで分かる人が多いから。だがいずれそう言っても分からない時代がくるだろう。深さを母から学ぶからだ。
 30年以上も前に堀内さんとモンパルナスを歩いていて、派手な色の服で歩くある民族の集団に出会った。「彼らは服を洗濯もせずに捨ててしまい、又新調するわけだ。安物をね。文化なんか分からないんだ」堀内さんはポツンと言った。着物屋のウインドーは悲しい。よくまあ何百年間の歴史を捨てさせられて、女たちが黙っていられるのものだ。