あそこで(2013220・0度5:05)

 「あそこであん時さ、手を握られなかったら、今のあたし達ってないんだよね」
 「あそこで先輩にこんこんと説教くらって目がさめたってわけよ」
 「あそこでこっそり何度も男泣きしたこともあったんやで、こうみえても」
 「あそこでオフクロと携帯で親父のようすは聞いていたんだけど」

 ここに呼び出されたらロクなことはないとも、経験はないが感じてしまう光景がある。取り返しのつかない、いいことも確かに起こしそうな光景でもある。匂いは同じで、あそこはいつも裏だ。化粧の匂いがする表ではなくて、素顔の裏だ。洗濯したての白い上っ張りを汚さぬように、迅速に行動せねばならない裏だ。大家には「お前んちの勝手にするな。消防法を知らねえのか」とどやされている裏だ。

 ♪包丁いっぽんサラシに巻いて、旅に出るのは板場の修業♪

 彼はどんな修業をしたのだろう。祖父にも両親にも修業期があった。僕には無かったような気がする。甘やかされている間に、とうとうこの歳になってしまった。それで何だか損したような気分もあるのは、まだ己を甘やかしているからだろう。もう遅いが「人間一生修業だぞ」とも聞くのが救いになっている。