階段(210329・0度5:05)

  

 坂道があったとする。それを坂道のままにしておくか階段にするかだが、判断の基準
があるのだろうか。あるに違いない。ただ議事録に残すようなことではなく、坂道周辺
の少数の有力者たちが決めたのだろう。決められたら従うしかない。
 世の中にはとくべつに坂道が好きだという人がいる。そのせいでか坂道には由緒があ
りそうな名前を付けてもらっている例が多い。それに比べると階段はどこかに付属して
いるように呼ばれる。金比羅さまの階段とか尾道の階段とかいうふうに。独立しての名
前はいただいてないのが普通だ。両方とも利用するには労苦を伴うが、愛称を付けるこ
とでそれを軽減できそうなのは坂道であって、階段ではないのだ。
 
 階段のファンだ。と言ったってのぼるのでなく眺めるほうだ。何故だろう。坂道はい
たるところにあって、考えごとや景色を楽しんでいると坂に気づかない程度のもあるく
らいだ。階段はすぐにわかって階段以外になにものでもない。遊びを許さない油断なら
ない道としてある。階段は段によってゆるやかな景色を数値化し引き締め、美しくみせ
る。知恵の味がするデザインなのである。
 
 西部劇映画では階段は出てこない。ドラマは横に広がる中で展開され、処刑台のみに
階段が設置されたりする。階段は高低の奥行きをはっきりと意識させ、卑俗な段階から
聖なる方へ導くようにも見える。破滅に向かっていく階段かもしれないとしても、裁き
は人知をこえて行われるように感じられる。あやふやな感情は段によって数値化される
ことで整理され、そのことで救われると古代からも考えられたような形跡が遺っている。
 散歩中に使われそうもない階段を見つけた。彫刻のつもりなのか、人生の苦みを見せ
ようとする教訓的な装置なのか。シンプルだが階段という形には滋味がある。

(ダイヤモンド社リトルマガジン『Kei』に連載させてもらっている拙文・拙写真より)


↑階段マニアが本日も採取した「岐路」「親父と息子と孫階段」「人生の溜まり場」と何とでも名付けられ、一文書きたくなる?推奨物件であります。書きたいかたは自由にご使用ください。