光る竹(201310030・3.5度3:00)

 江東区常盤あたりに竹屋がある。
 竹という素材には工作欲がムラムラと湧く。じつのところ大物の工作したことは、ほとんどないのにだ。桂離宮のアプローチには、生えてる竹を数十本、先端をぐーっと地面近くまで曲げて止め挨拶させている工夫があって、可哀想だけど感心した。草月流の勅使河原という人も幽玄を表す竹の造型に凝った人だった。などなどきりがないほど作例が思い浮かぶ素材である。小中学校の空き室に太細の竹が放り込んであって「何してもいいよ」と言われたら、入り浸るだろうなあ。ナタやナイフの使い方、手を切らない所作、アイデア競争など勉強になりそうだ。そういえば美大の庭に、例年オープンキャンパスの時期になると、彫刻科の新人たちによる大きな竹の抽象造型物が競うように何カ所にも登場して、やっぱりなあと思ったものだ。
 
 昔は桶屋がふと現れて、村中の注文を共有の家に何日か滞在しこなしていった。渡り職人である。プラスチックなんてない時代だ。祖父がそれだった。旅から旅のフリーランスである。掃除洗濯料理の全てに堪能にならざるを得ない生き方である。祖父は盲目になり引退していたが、そんな職人が桶を締める竹の輪を魔法のように作りあげていくのを、村中の子どもたちが飽きずに観ていた。興業みたいなものだ。・・・と、ここまで書いて白状すると、その頃僕はかぐや姫の存在をかたく信じていて、密かに竹山を探索していたのだった。竹にはそうしたまぼろしの領域に引き込む魔力がある。