泉(210310018・−2度4:05)

 マルセル・デュシャンに20歳ころ感化されて近ごろやっと病気が治ってきたようだが、血肉の一部になってしまったのだろうか、排泄してしまったのだろうか。何年か前に横浜の美術館で再見した時には、何とも感じなかったから、こっちの感性がたんに加齢によって摩耗したのかもしれない。
 芸術は定義も規範もないものだ。文学もその一派だから全文横組で「傘」を「天からおちるすいてきから身をまもるもの」(不正確)とか表現して、うるさがたの文芸評論家(例えばサイトウミナコ)あたりをたぶらかし芥川賞を盗ってもいいのである。勝手にしろだ。文学はそういうものだからマルローがフランスの文化相になったときに仲間が「おまえ堕落したな」と言ったというのは当たっているし石原季節郎が暴論を述べるのも当たり前なのである。そもそも無定義無規範なんだから。

 感化されるのは感化させる油断が脳にあるからだ。まあしかたがない。写真は京都醍醐寺そばで「おーデュシャンだ!」と叫んで10年も前に撮った水道屋の小さなウインドーなのだが、いまだに捨てもせず座右にあるのは、やっぱり治ってない証拠だろうなあ。デュシャンが便器に「泉」と題して展観した事実が与えた衝撃波は醍醐寺の霊宝館に入って、やっとその時は薄まったのであったが。