大いなる里(20121206・8度3:50)

 狭い路地から路地へ、まるでジャングルを跳び回るような路地少年の物語を描きたいと宮崎駿は『ラピタ』の前に語ったが、果たしてくれていない。もう描かれないかもしれない。一説によると少年が主人公の話は宮崎の場合には客の入りが悪いと。少女が好きなんだ、あの人は。成功したのはそればかりだというのであるが、どうなんだろうねえ。たしかにトトロだけは好きだけど。

 僕は生家がまだ遺っていて、幼年期10年間を過ごした離島隠岐、そして青少年期8年間を過ごした町の東成区大今里もほぼそのまま遺っている珍しい部類の人間ではないかと思う。


↑10軒ほどの長屋。生家はたぶん真ん中あたりではないか。大阪に行くたびに「まだあるか」と見物する。ここだけがのこったらしいのは背後の街や周囲のようすで察することができる。遺物の顔になっている。浮いてるもんね。

 京大の藤井聡教授が早口で強靱国家論を話すなかで『高速を整備せんかったら、今ごろは奈良行くんでも暗がり峠を越えていかんならんのでっせ。ええんですか、それで』という例に同意して笑えるのは、暗がり峠を知っているからである。その峠から大阪の高麗橋へ続く街道筋あたりで僕は生まれた。「暗がり峠奈良街道」という。地元ではただ奈良街道と呼び、そこら辺の路地党のガキらも「エライ道路」だと一目おいて、只者ではない存在なのである。

 昭和18年(1943)生。この生家には生後40日ほどしかいなかった。ごく側まで爆弾がおちてきていたからである。両親にとっては4人目に生まれた初の男子で、明治生まれの親父が特別に喜んださまは想像できる。その最中に親父に赤紙がきた。親父は36歳で4人の子持ちだ。戦地は志那である。そこへ2等兵として行けというのである。こう書いていても心底から怒りがこみあげてくる非情事態である。戦前のほうが良かったなどと夢にも思うなよ。悲惨な志那帰りで神戸の人であった大藪春彦の「怒りの小説」に同調してしまうのはこの辺にルーツがある。原発問題を大藪が書いたらどうだったろうか。まあまあ血圧上がるから興奮しないで、ゆっくり書こう。

↑生家はこのあたりか。だいたい骨が戦前の物件だ。木造長屋。時代の継ぎはぎ・コラージュが味わいどころだが、大丈夫かなあ。