継ぎたいもの(20121201・6度4:45)

 文化財に値する古い民家がつぎつぎと解体されていってると番組は訴えていた。僕らがどうすると言ったって、どうしょうもない。見て暗い気分になっただけだった。
 南方熊楠は明治期に鎮守の森を伐採しようとした金権猛者に対抗して一人で反対運動を起こした。成果の詳細は知らないが、そうしたのである。地方の生物学者でしかなかったが。
 またビアトリクス・ポターは英国のある地域の保全を一人で訴えて運動を起こし成果をあげた。これもたんなる絵本作家である。

 日本で文化財を守ってこれたのは武装した警護人を雇ってきたからではない。守ってきたのは「信仰心」ではなかったか。「畏れる心」である。日本には発祥地の大陸では既に消されたお宝が遺っている。極東の小さな島国だから「吹き溜まりみたいなもんさ」と冗談かます愚人もいるが、僕は信仰心があったからだと思っている。
 
 では具体的に何の神様を畏れるのかというと、多くの場合は無いのである。あるいは無いと思っている。そして肝心なのは無いほうがいいということだ。それは世界中で宗教を口実にした経済戦争(といっても爆弾付き)がいつまでも続いている現況をみても明らかである。無ければそれを口実にできない。そこが何の宗教でもって聖なる所とされていようと構わないのである。何であろうとも自己の領域を越えている存在はあると感じ、畏れるのだ。そして汚さない。56億年後に弥勒さまが現れるまでこの世を守るという地蔵さまにはカワイイよだれかけまで奉納する。見えない一線が日本人には見えるからである。
 
 見えたはずの一線が見えないらしい金権猛者どもが跋扈する世にまたなるのだろうか。畏れる心の無いヌケヌケとした奴らは恐ろしい。奈良の文化資産を焼き、平泉の800寺を焼き、比叡山を焼いた奴らが立派だ、好きだという人には組したくない。それらを造った工人たちの祈りの心のほうを継ぎたい。