喧嘩はお止め(201021120・5度4:50)

 「喧嘩はお止め 相撲はお取り」という主に姉が喧嘩ばかりしてる弟たちを諫めるような歌にも聞こえる言葉があった。オフクロなら「喧嘩ばっかりしくさってこのガキども!」と竹サシ振りたて追いかけられる場面である。雨の日には狭い家の中で相撲でもとるしかないのである。それがウルサイのはわかる。でも弟は分からないから何度でも挑んでくる。おかげでオフクロに相撲してても叩かれた戦友の弟とは還暦過ぎても仲がいい。
 昭和29年ごろに相撲中継が始まったかして、仏壇みたいなテレビをいち早く設置した散髪屋に連日通い、正座して見せてもらった。年一度の大阪場所には授業なしで団体で見物に行く。昼飯は給食のパンひとつ。朝からだから腹がへって仕方がない、そこで土産にと配られた小さなチューブ入り練り歯磨きを、持参の小さなバターとともにパンにつけて食った。死ぬことはないだろうと級友と相談した結果である。ほら60年たったが、死んでない。

 人生訓の多くは相撲で知ったと思う。「自分の型を持て、研け、その型に持ち込め」なんかはその代表だ。ハメたら美しいほどの自分だけの型を持つことだ。これは人生かけた課題であるから人生訓なのである。己ができることは限られていることを知ることが肝要だ。いつまでも何でも出来るつもりのナマクラは通用しない。
 校庭ではあちこちで相撲をしていた。子どもながらに連戦の結果、自分にも得意な型があることを知って、うれしくて試しているのだ。また「かばい手」もここで知った。
 相撲をしたことのある人にしか分からない感覚がある。それは「勝負は組んだ瞬間に分かる」というものだ。相手には自分の型も技も通用しないのが瞬時にわかるのだ。悲しい現実である。だから突き破ったら金星なのである。
 散歩コースには相撲部屋があちこちにある。型を求める稽古風景をいちどは見たい。