げげげ(20121115・7度5:15)

 学校も試験もなんにもない国の住人たちを紹介した水木しげる大受けしたのを受けて、出身地では何処にでも彼らを置くことにしたらしい。米子駅にも彼らはいたが、レストランとの食い合わせはどうだろうか。感心しないのである。
 そもそも墓場生まれのきたろうがボンゴレ・ビアンコをすすってるシーンは見たこと無いし見たくもない。客寄せのためならこういう具合に無感覚になるというのは恥ずかしいことだ。彼らのためにもならない。水木ワールドから引っ張り出すということは、この世のデザイン世界に抱き込むことを意味する。だが抱き込めないところに彼らの存在価値があるのだから、ディズニーキャラとは役目が違うのである。彼らをハンカチにしても、まんじゅうの箱に描いても合わない。うかつに汗もふけず、まんじゅうも危なそうだ。水木漫画は毒入りなのである。

 「近ごろではもう金があり過ぎてねえ・・・」とひとを食ったように笑っている水木先生は「みんな分かってねえなあ。金、金か」と内心では思っているに違いない。この世でいちばん日の当たる園遊会にまで招待されるのだから、何がなんだか、だろう。南方の戦地で腕を無くしたときに、水木が麻酔薬もろくになく生死の境を彷徨ってるなかで、何を思っていたか想像つかないというのは無感覚過ぎませんか。
 ウインドーの異様に小さい見本皿を彼らと並べてみると、何故だか悲しみに似た感情が湧き上がってくるのだった。これはまるでお供えではないか。その意味では大成功の、作家水木しげるを「分かっている」展示デザインかもしれない。