文化財(20121024・12度5:35)

 京都には世界遺産がたくさんあるらしい。けっこうなことだ。だけどもそのことを知って訪れた日本人のみならず、外国人はがっかりしてないだろうかと気の毒に思う。遺産は建造物に限られ、街はそこらと同じ醜くさで新建材、看板、電柱が充満しているのだ。今更どうにもならない。
 
 哲学者の梅原猛は現京都駅のデザインコンペの審査に関係し、結果がねじまげられた経緯を暴露、辞退した。ねじまげたのは暴走列車を走らせマンションに突っ込ませた西日本鉄道である。そしていまあの京都駅のデザインが好きだという人に会ったことがない。京都の街が取り返しがつかない状況になったのは究極は市民のせいだろう。それだけの遺産を抱えて空爆も免れた深い意味を考慮せず、やりたい放題やったのである。やらせたのである。タワーの時にも京大の建築の先生だった西山卯三その他が猛反対したにもかかわらず、嘘設計図を認可し、あの姿になった。そのせいで空海がつくった東寺の五重の塔は駅から北だけが京都だと言わんばかりに裏に置かれたように地味な存在になっている。
 
 それでいてノーベル賞を京大の関係者がとると、京都がまるで創造や美に特に敏感な人ばかりだと言わんばかりに、商店街に出張ったマイクの前で威張るのである。僕は市民を恨んでいるわけではないが、そういう事態を苦々しく悲しく思う。その言葉と街の姿があまりにもバランスを欠いてないか。それはまた京都だけは別であって欲しかったという勝手な言い分であって、戦後の貧乏時代は京都にもあったろうし、取りあえず住宅や電気は並に設置しなければならなかったのである。ウイーンの中心部の建築をかえる際には市民も参加した議論がえんえんと何日も続けられ、それはそのままTV放映されると聞いた。嫌な言い方をするなら遺産で食いたいならそれくらいの努力をしたらどうかと思うのだ。また小泉元首相が言った「観光を売りにする国を目指す」ならだ。

 対して東京はどうだ。石原知事はタワーから見下ろして「反吐のような街だ」と言ったそうである。彼にしたってどうしょうもないのである。ましてや都市デザインについて普通の人が考えられるわけがない。図画の時間すら無駄だと減らされていく一方の日本で、デザインの授業なんてあり得ないだろう。にもかかわらず身の回りは戦略的デザイン商品に包囲されているのだ。真の敵は糊のきいたシャツを着て、不思議な形のメガネをかけたデザイナーかも知れないのに。深川の消火器屋の3文字はがんばっている。応援したい。