読めない書けない(2012106・20度5:00)

 僕は自分がセコイせいか、あらゆる場面で八百長はあり得ると考えている。世界歴史を動かす政治の次元から縁台将棋のレベルまでそれはある(と考える)。それを良いとか悪いとかいうのではない。そんな思考法でくくれる問題ではないのである。八百長は前もって談合し希望する結果に結びつけようという行為だから、国同士なら国際連合でのロビー活動だって、熱心に八百長をやっているようなものだ。
 
 八百長が世間で大問題になったのは土俵上で行われていたぶんだが、なに今だって行われているに違いない。自分がセコイから分かるのである。自分ならやると思っている。しかしそうであるのに異国の力士同士が日本人の面前で異国の言葉で談合して行っていると勘ぐると気分が悪い。ひどく文化を汚されたように感じる。ヒソヒソ話が聞こえないのは声のボリュームの問題だが、こっちは言語の問題だ。
 「日本は建前と本音の国」と言われる。なんのこっちゃと思う。国民を洗脳したいにしても、その言い方は単純過ぎないか。そうでない国が世界のどこにあるというのだ。過去にあったというのだ。

 先ごろ綱を張った力士の名前を読めるのだが書けないことに、いま気付いて驚いているが、国技館のある町の名前を通りすがりの人で正確に読める人も少ないだろう。この横丁は「よこづな」であるが、町名は「横網(よこあみ)」である。これが文化というものだ。まあ八百長とは関係ないけど。