シーンという音がする(2012105・18度5:00)

今夏はラジオもテレビも新聞もない家で過ごした。
10m先に静かな湾がある家だ。
早朝に家のまわりの草花をとって持参の花器に投げ込み写真を撮る。
まだ朝の光に赤みがある。湾ではときおり小魚がはねる音がする。
場所を変えたり、角度を変えたりして撮る。
街に放り投げてきた諸事情への想いが体から抜けていくのがわかる。

街では緊張しているのだ。メデイアの騒々しさに対しても。知ったところで何かが自分の手でできるわけではない。何年にたった1度の1票というゆがめられた権利しか与えようとしない民主主義。その1票に払った税金額を考えてみろ(僕はもはやいばれないが)と今更くやしがる。それすら捨ててしまう連中がいる。

ある世界的な社会学者が「革命なんて簡単です。投票率を100%にすればいい」と言ったのは、どうなんだろう。民意に委ねるという考えをとるのが民主主義だというのなら投票率をあげるしかなく、国会に何らかに対してのデモをかける一方で、「投票しよう」と義務を喚起する運動を足すか。誰に入れろというのはではない。その運動のほうがデモの音を遠い窓の中で聞いている人たちに効くのではないか。単純過ぎますか。

ここではシーンという音だけが聞こえる。