方丈記の家(2012923・19度5:30)

 ずっと以前から僕は「街はまず頑丈でなくてはならない」と主張してきた。自宅でも寝室は別囲いにして、頑丈にし床の周囲には水や食料ほかを組み込んだだらいい(これに近い箱が商品化されたのには驚いた)。しかし先の地震津波の映像を見ると、頑丈といっても自然の前ではたかだかの小細工でしかないと絶望的になる。東南海地震が予測されている。津波の予測図を見るとほとんどの地域は又も波に襲われる。もうこうなったら発表された32万人(根拠??)といわれる人々をイケニエにして、さっさと山の上にでも走って逃げるほかないと、各地区では決めたようである。それでいいのだろうか。

 なら、せっかく捨ててしまうのだから、もっとあばら家にしておいたほうが、あるいは化粧なんかせずに、波に流しても惜しくない家にしておいたほうが良くはないかと無謀なことを考える。しかしそんなことをできるわけがないのである。終の棲家であるからこその化粧であろうし、人も化粧する動物だ。
 
 するとまた僕は頑丈論を妄想する。どうせ高い場所に逃げるのならその場所に市民にとって大切な物を常に納めておける場所を作ったらどうか。波に耐えられる建築はほんとに無いのか。波の勢いを少しでも弱める形の非難地区までの道路設計はないか。公民館は民謡踊りのためのみならず簡易ベッドを設置した空間にしておけないか。壁からベッド(といっても60cm幅×2mの厚い板)が出てくる。日頃は壁。トイレや水回りは余分につくり日頃は封鎖しておく・・・限りなく妄想が進み、とんでもない街ができてきそうであるが、世界遺産になったりしている世界の街は外敵から身を守るため、今みるととんでもない街になっているのだから笑えないだろう。笑えないというよりデザインは用件によって生まれてくるし、とんでもの用件でも美しい答を出すのが仕事である。こうした街をつくるにはまず私有権を放棄させるべきだろうけど。

 そういうことを言ってると「どうせ家なんか朽ちるもんやないか。方丈記にあるように日本人はそうして流されてきたんや」と大阪の友人に笑われたが、そう言ったらおしまいでんがな。道路きわの朽ちていく小屋を見ていて僕は日本人じゃないかもな、と思った次第。