2102425 カメラマンではないが(新谷記)

カメラマンのプロを目指してきたわけではない人(僕)は
まずターゲットに対しての立ち位置がプロよりも少ない。
少ないから撮影枚数も少ない。
撮影時点で考えていることが浅く狭いのだ。考える速度も遅い。
どの分野でも素人とプロの差についてはそういえるのではないか。

長く専門分野を極めてきた人(プロ)は野球でもいう「動体視力」が高いのだ。
瞬間が止まって見えるのである。たとえば音楽家は音符が見えるだろうし
素早く転調の感知もできるだろう。スローモーションのように
彼らには音が捕らえられているはずだ。

視覚言語を少しでもかじると、花の下での記念写真の持つ言語的貧しさに気づくのである。
抽象絵画がぜんぜん分からないといって己の感覚の弱点を嘆く人がいるが
それは感覚が貧弱なのではなく、言語を学んでないからだけなのである。
普通の写真には絵画のように作家の中で選ばれ変形させた物体が
あるのではないが、世の物体を言語化しておかないと
写真もやはり分からないことになるのだ。言語化することがすなわち学びである。

写真は偶然と必然が一体となった
じっさいに存在する物体・気体の組み合わせで構成されている。
物体の意味を組み合わせることで生まれる意味が写真の中にある。
映画でも同じことである。映画ももとは孤絶した1枚の写真でしかない。