デザイン未開国(20121203・隅田川岸2度4:50)

 バスだけが頼りの旅行者にとっては、3時間に1本しかない便に遅れたらおおごとである。宿でもらった時刻表ではそろそろなのだが、教えてもらった地点にバス停は見当たらない。ほかに何もない道だ。みつけられないはずがない。あせりまくってうろついた後に「何だ、これかよ。こりゃねえよー」安堵とともに嘆きたくなったバス停の写真である。
 公共の標識デザインをそこの地域住民だけで勝手に変えていいのだろうか。町や運行会社によってすべて違ったとしたらどうなる? 規制はないとしても、どこの町や国から訪れた老若男女でも瞬時にわかる標識でなくてはならないのは常識ではないか。それだから「公」といえるのである。
 
 これは地方だからさ、と笑ってはいられない。東京などでも瞬時に判別できる標示は極端に少なく、鍛えよ覚えよ、さもなくばここへ来るなといわんばかりである。「使う人の立場になってデザインすること」は難しさの極点にあるといってもいい。設置している人間の性格がとくに冷たいわけではない。彼らは「デザインとは何か」という問いを設置担当者でありながら、頭脳の限りを尽くして一度も考えたことがないので「難しさの質」を知らないだけなのである。
 公共標識は誰でも瞬時に判別出来る上に美しくなくてはならない。この課題がいかに深い心理や視覚への考察と、造型力の熟成を要求しているか、まだデザイン未開国の人々は知らないのだ。